午後5時 都内某オフィスビル
隣の席の山本さんが積み上げた書類がこちらにバサァーとなだれ落ちてきた。何も言わず黙って積みなおす。
30歳を迎えたボクは今年になっても「怒らない」以外の取柄が見つからない。
「村山さんごめんなさいねぇ、ほんと片付かなくて嫌になるわぁ」
絶妙なバランスで書類を積みなおしながら、山本さんは形式的にボクに謝る。
(ボクは村上だし、「片付かない」のではなく「片づけない」のが原因だろ)と思いながら、
「大丈夫ですよ、片づけたいときは手伝いますので」と手を差し伸べるフリをしてみるが。
「いいわよー、恥ずかしいじゃない」と拒絶されてしまった。しかし、これが形骸化した、いつもの光景だ。
ボクは村上信也(むらかみしんや)
東京生まれ東京育ちの江戸っ子と言いたいところだが、ボクはまだ東京生まれの2世代目なので厳密には江戸っ子ではない。
幼いころから感情表現がない性格だ、というより高圧的な母親の元で育ったので、適応するためにそんな性格になったんだと思う。
何事も不器用でみんなの輪に入るのが苦手なタイプだった。
いじめの標的にもなりやすく、そういったときに感情のブレがないのは実は繊細な心を守るには大切なことだった。
そんな性格からか、あまり外交的でないボクと似たり寄ったりだったのが同僚の藍だった。
箱入り娘を絵に描いたような子で、始めて同じ部に配属となった初日の聡明な存在感が印象的だった。
そんな藍にみるみるうちに惹かれてしまったのは彼女の内側に秘めるミステリアスな部分がボクにもあったからかもしれない。
山本さんへの苛立ちとは正反対に、その日の夜ボクは、
「好きです」
と川崎のバーにて意を決して想いを込めた言葉を伝えていた。相手はもちろん藍だ。
藍は元々ボクと同じ部署で働いた女性で、転勤で2年前から神奈川に務めている。
藍は1年前付き合っていた同僚の雄太と別れたと聞いた。
それから心にぽっかり穴が開いたようにどこか哀しい目をしていた藍を見て、僕はいたたまれなかった。
「私、男の人が怖いの」
正直驚かなかった、雄太はどこか謎めいていて、いつもブツブツと上司を睨みつけながら仕事をしている。
同期からも距離を置かれていて、何を考えているのかわからないとかサイコパスとか色んな噂が立っていた。
雄太は先日の異動で茨城に配属になったと噂で聞いていた。
だから藍と付き合っていると聞いた頃から心配はしていた。
「私ね、学生の時に付き合ってた人にね、インテリア壊されたり、暴力振られたの。しかも雄太には最近まで付きまとわれたりしてたの。」
藍は俯いたまま、誰かに聞かれるのを恐れるようにささやくような小さな声で打ち明けてくれた。
「それは大変だったね。
でも、大丈夫。
これからはオレが守るから」
藍を守り抜くという覚悟を自分に言い聞かせるように敢えて”オレ”と言った。
暫くの沈黙の中、お互い約束を交わすように目線を合わせた。
「よろしくお願いします」
藍は目の潤ませ、表情を両手で隠しながら頷いた。
「こちらこそ、よろしくね」
できるだけ喜びを顔に出さないように早口で返した。
あれから3年
「藍、これどかしていい?」
(何度も言わせないでほしい)という想いが溢れて少し嫌味っぽく言ってしまった。
藍は物持ちがいい反面「いつか使うかもしれないから」といろんな物を捨てられない、という性格で、食べ終わったクッキーの缶も律儀に積み上げている。そのことに少しイラっとして言った。
「いいよ」
僕たちは大田区某所で同棲している。
藍は同棲が決まると、電車で3往復して実家から大量のぬいぐるみと大好きなアーティストのグッズと共に引っ越してきた。
部屋の大半をそれらの『同居人』が占めている。
一緒に住むようになった最初の2~3ヶ月は家具を買い漁ったり配置をいろいろ変えたりボクも楽しかった。
とはいえ、同居人も藍もマメに掃除をするタイプではない。
年に1度だけは入念に掃除するタイプだ。
洗濯が終わった電子音が鳴ると、同時になぜか藍は倦怠感に苛まれる。
下着が無くなってくると「今日は晴れだね」とか言い始める。
人にお願いするという立場になりたくないらしい。
たまに彼女の思考パターンが異常なのかなと疑問が湧いてくる。
ボクは「平等な関係が理想の相手」とずっと前から言ってきたが、現実と理想はなかなか追いつかいないものなんだろうか。
「お風呂の電球切れちゃったんだけど。」
彼女は語尾が消えそうな口調で言う。
「そうなんだ」
その日はあえて気が効かないフリをした。
視線も敢えて合わさず、淡々と回答をする。
いつからだろう、なんでもしてあげたいみたいな気持ちにならなくなったのは。
そんなボクは、あるイベントから目を背けてきた「結婚」だ。
藍は親にも友人にも「結婚するの?」と圧をかけられているらしい。
ボクはボクに「早くやりがいもあって稼げるようなポジションにならなければ二人の人生に責任なんか取れない」と自分に圧をかけている。
そんな二人の想いが拮抗したまま1年近くが過ぎて、世間でいうところの「節目」といわれる30歳をお互いに迎えてしまった。
「何か変えなければ」と焦るボクに「今のままでいいから」と満足を強いてくる藍との温度差にも漠然とした価値観の違いを感じていた。
そんなある日、仕事から返ってくると藍はいつものようにベットの上でスマホをいじっているが、なんとなく目が座っているように見えた。
なんだか不吉な予感がしたので長めにトイレに籠ってみる。
だがそれも長く続かず、トイレで長時間に渡って居座るとなると、なんだかいかがわしい疑念を持たれるんじゃないかとか勝手に妄想してしまい、いそいそとリビングに戻る。
目の端に藍を見ると、スマホを見つめたまま指は動いてない。
妙だ。
そんなボクの疑念を察したかのように藍は「結婚って考えたりする?」と明らかに探りを入れてきた。
ついに来たか。そう思った。
いろんな映像がフラッシュバックのように蘇る。
藍の友達や家族の顔。
旅行先で見かけた幸せそうな家族。
ボクの両親。
ずっと前から子供は好きだったが女性は苦手だった。
母親の性格が祟ったのかもしれないが、ヒステリックな感じが嫌だった。
藍はどうだろうか?どちらかといえば落ち着いている。そういった面では、自分の理想と合致するものの、正直なにを考えているのか分かりづらいともいえる。、理想欲を言えば、もっと自立している女性の方がどうして欲しいのか分かりやすくて助かる。
とか、思いをめぐらせている間は上手く言葉にできないのに、答えなければいけない空気がゆっくり、じっくり、迫ってきた。
妥協して無難な生活に満足していくのか?
納得した仕事も家庭も手に入れる道を探し続けるのか?
何十秒黙ったままになっていたんだろうか。
2人の自分がせめぎ合い、もうどうにでもなれ。と思って答えを導き口から吐き出した。
ある優男の末路(後編)に続く。